自分流の聖書の読み方

聖書を読むと言ってもいろいろな読み方があります。

ストーリーを知りたいから、一度は読んでおくべき歴史書だから、キリスト信者だから、考古学に興味があるから、生き方や哲学を求めているから、未来を予想するなど読む理由は様々です。

僕は小さい頃から母親がキリスト信者なのでどちらかというと聖書が身近にありました。

そして、子供にも分かる絵本のような聖書を読んだり、解説をしてもらっていました。

これはストーリーを知る、又はキリスト信者的な読み方であり、生き方や哲学を求めた読み方でした。

僕はこれを否定しているわけではありません、経験しているからです。

そして聖書を知ったような気になっていました。

難しい個所は人や教会に解釈してもらい、人に意味付けをしてもらう。

これは聖書を読んでいるというより聖書を人に読んでもらい解釈してもらっているに過ぎませんでした。

問題を定義してもらい、さらに答えを教えてもらって分かった気になっていました。

流派により聖書の解釈が異なるといいます。僕は今教会に所属しているわけではないので全てを把握しているわけではありませんが。でも違うのなら僕なりの解釈が本当はあるはずです。

ちょっと的外れかもしれないけれどそういう読み方もありだなと思っています。

そして世界の様々な僕の知っているほんの小さなことを組み合わせると、聖書が本当に神によって伝承される素晴らしい何1つ偽りのない書物ならサタンは一番に恐れます。もし僕がサタンだったら真っ先にそんな歴史書を抹消するか捏造します。解釈を少し変えたり、分かりにくいように胡麻化したりします。

なので一般的に配られている一般大衆向けの聖書は果たして全てが正しいと言えるのかといえばあやしいです。いつだってサタンのパワーは強いです。でも、こんなこと言うとお前はキリストを信じないのかと言われそうで怖いです。

聖書は素晴らしいゆえに悪用されている可能性があります。都合のいいように解釈させ奴隷にさせたり、また洗脳することが可能です、素晴らしいゆえに騙せることが可能です。

だから元キリスト教信者であり、神を信じるが、聖書を信じないという考え方があるような気がします。

疑いながら読むというと何かに取りつかれた人みたいですがそういう読み方をしています。今の時代だからこそ分かる解釈に繋がるかもしれません。