知らぬが仏か

聖書の中にレビ記というものがあります。

ちょっと地味ですが、レビ記から引用します。

下記2つの文は同じ章ですが、口語訳と新共同訳で言い回しが少し違うので載せておきます。

”悪いことについてであれ、善いことについてであれ、どのような事柄についてであっても、軽はずみな誓いが立てられるようなことに関して、軽はずみな誓いを立てたならば、それを知るようになったとき、責めを負う”

”また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。 ”

この”とがを得る”をどう捉えるかによりますが、非難したり責めるのは決して他人だけではありません。

悪いことをしたり、適当に欺いていたことがバレた時に他人から避難や責めを浴びることとなりますが、

本当に知った時には、他人もですが、自分自身がまさしく責め後悔します。

軽はずみで適当に人を欺いたり、信じてもいないの誓ったりする行為は、そのことを確かに自分自身が行ってしまったと知った時に激しく後悔するようになっています。後から、後悔するからやってはいけないんだと改めて感じます。

若い頃にやってしまったこと、当時そこまで考えていない軽はずみの言動を大人になって後悔する時があります、それが「知ったとき、とがを得る」に例えられると思います。

またそれは、拡大解釈すると時間の大切さ、命の大切さ、子供や夫婦の大切さに気づいた時にも言えると思います。

大切さを知った時、過去自分が粗末に扱っていたと知った時に自分自身の責めに合います。

「なんで今までしてこなかったんだろう」

「なんでああいうことをしてしまったんだろう」と。

なので早く真実を知る必要があります。早く本当に大切なことに気付く必要があります。

知らぬが仏といいますが、知った方がいいと思います。知ることから始まります。

知って、懺悔することにより、次のステップへ進めるからです。