聖書【レビ記】僕が気付いたこと1

旧約聖書の3番目の「レビ記」は退屈する人が多いです。

ほとんどが律法中心に書かれているからです。簡単に言えば、法律がずらずらと書いている感じです。

それをしてはいけない、それをするとこうしなければならないとずらずら書いています。

そしてその律法が現代で当てはまらない箇所が多いこと、そして厳しすぎること、またその律法をキリストが緩和されたことにより価値が薄らぎがちです。

例えば、最も有名な「隣人を自分のように愛せよ」という言葉もレビ記には書かれていますが、それはたった一章節であり、その割に罪の償いの儀式、生贄の方法や手順はより細かく書かれており確かに現実と離れています。例えば、羊や牛を自分の生贄として、屠り(殺し)、その血を祭壇にささげることなど。

これはイスラエル民族に対して神様が課せられたものであってキリスト教信者、教会、一般の人に課せられているわけではありません。なので想像し難く、難しく退屈してしまう人も多いと思います。

でも、本質は変わらないと思っています。キリストが律法を否定し、廃止したわけではありません。

これは、主がモーセを使い、定めさせた律法です。

そしてやはり全ての律法が守らなくて良くなったわけではなく、やはり主の本質はここにあると思っています。

めちゃくちゃ厳しい律法ですが10章で神様の人間らしさに気づきます。感情があると言うことです。

例えば、アロンの長男、次男が主に反し死んでしまい、三男、四男はその混乱で儀式を守れませんでした。

その守れなかったことに関しては、気持ちを汲み取り罰を与えず、良しとされました。

僕は、そこに同じ心境を感じ取ることが出来ます、律法を守ることは大切ですが、守れなかった時の気持ちもちゃんと察してくれます。そこに救いを感じ、また共感します。

まあ僕は聖書について語る気はなく、説得したいわけでもなく、ただ読んで欲しい気持ちがあります。

そして自分で感じてもらいたいです。これから自分で考えることが大切になってくると思います。

それを聖書を使って学ぶといいと思います、それは信者でなくても関係ないです。

タイトルだけを見て知った気になる、SNSでいいねが多い意見は正しい、大きな宣伝に騙される、本質を理解せず情報を信じる、信ぴょう性のないものを拡散する、何でもかんでも信じるのではなく、情報の選択を自らするべきです。

あれは正しい、あれはフェイクだ、あれは間違っている、それは誰の意見ですか?

自分の意見で言えるようにするべきです。

結局、聖書を読んだ人しか聖書について語れないことが分かります。

ニュースも政治も、ビジネスも全てそうです、その世界に入った人しか分からないです。

知った気になることが最も恐怖で、その思考から抜け出せなくなります。