聖書【ヨシュア記】僕が気付いたこと2

29歳から英語学習を兼ねて英文で聖書を完読することを目標に、毎朝1時間、そこに時間を割いています。聖書の面白いところは自分の置かれている状況によって心にグッと刺さる部分が毎回違う点です。

僕が今日グッと来たストーリーを紹介します。

ヨシュア記の15章からです。

モーセは約束の地に入れませんでしたが、代わってヨシュアという人物が約束の地にイスラエル人を導きます。獲得した土地をくじ引きによって分配するのですがユダ族がくじ引きで引き当てた地は不毛の地でした。荒地で作物が育ちにくいところです。

ユダ族はとても信仰が深く、誰よりも主を愛していたのに与えられた地は他よりも優れたところとは言えませんでした。ユダ族にとっては悔しかったと思います。

しかし、それは神の業でした。

実は、作物の豊かな他の地には農耕の神バアルという偶像崇拝に支配されていました。ユダはそこから遠く縁がなかった土地を与えられたので結果として信仰を保つことが出来ました。

一見、不遇と思われることも、実はちゃんと意味があり、与えられてそこにいます。

「何でこんな目に合わなければならないのか」「これだけやったのに何で自分だけ」

こうやって今置かれている状況に嘆いてしまうことは多いと思います。でも、そこで学ぶ意味がちゃんとあり、そこに至る理由があります。感謝するべきです。そこにいないといけなかったのです。

また、強いユダ民族は、主の導きによりどこの国にも勝利していくのですがエブス人だけは追い払うことが出来ませんでした。しかし、これも主の業でした。

自分の周囲に一切敵やライバルのいない状態を作ること、またそこに身を置くことは感謝を忘れやすいです。また自分の力を過信して、傲慢さを生みます。少しの敵が傍にいることは自身の成長にとって必要です。そこからも学ぶべきことがたくさんあります。邪魔な存在や障害は必要だからそこに置かれています。

事実、ダビデ王の時代に、あれほど悩ましたエブス人は、あっさりやられます。それも神の業です。もう必要ない悪だからです。それはユダ族の信仰を深めるために、成長させるために、結束を強くするために、その期間そこに置かれていただけです。

思い通りにならない時やうまくいかない時、それは試されている時であって、成長させてくれる時間だと思っています。自分にとって必要不可欠な期間だから与えられています。そう思うと、良いも悪いもないことが分かります。むしろ悪いと思われる不運な時こそ試されているんです。踏ん張り時です。

僕はこのことをたった15章1つから学びました。