聖書【サムエル記上16章】僕が気づいたこと

サムエル記上16章から僕は、心と身の在り方について考えます。人は見た目で判断してはならないが、心がやはり見た目に反映するという話です。

このシーンは後のダビデ王となるダビデを主が選ばれるシーンです。

サウルという王がいましたが、サウルが主に従わないので主はサムエルという人物を使って別の王となる人物を探しに行くように指示します。

その別の王となる人物はベツレヘムにいるエッサイという人物の息子に中にいると言います。その人に会いに行くためにサムエルは、ベツレヘムへ向かいます。

サムエルは、エッサイとその息子たちに会った時に、直感的にエリアブこそ選ばれる人物なのだと思いました。顔たちや身の丈が良いからです。でも違っていました。主は言います。

「私が見るところは人とは異なる。人は外の顔を見るが主は心を見る。」

ここを読んで納得する人は多いと思います。人は見ためで判断出来ません。イケメンや美女が、心が清らかで純粋かと言えばノーです。ただこの後の展開が僕は考えらされます。

サムエルは全ての息子を見て「これであなたの息子は全員揃っているのか?」と言います。

エッサイは「まだ羊飼いの末っ子がいますが…」と、末っ子を連れてきます。

そこで主は、エッサイの末っ子を見て「彼こそ選ばれた人物だ。」と言います。

サムエルは、彼を見て血色の良い、目のきれいな、姿の美しい人だと思ったと書いてあります。その人物こそ、後のダビデ王となる人物です。

「結局、姿の美しいイケメンかよ。」と思うと同時に、そうだよなと納得します。見た目で判断することは出来ませんが、心の清らかで純粋な人は、自然と姿勢や目が澄んできます。

内面の綺麗さは外側に自然に溢れてきます。僕の周りで尊敬出来る人は例えイケメンや美人でなくても、すごく生き生きとし綺麗に見えます。普段の考える姿勢や使う言葉は間接的に外側に影響を与えます。

僕もエリアブのような容姿を備えていなくとも、ダビデのような目のきれいな血色の良い人でありたいです、それには、まず内面からだと思うのです。