全ては神の業だと思う

自分の人生に起こる出来事は、全て自分の業であると思ってしまいがちですが、しっかり神にコントロールされていると思うことがあります。

自分たちは人生を歩む時に、いつも選択を迫られます。

大きな出来事で言うと、高校受験、就職活動、結婚、出産、転職などこれらの行為は、自分が判断し自分で選択して、選択肢によって別の結果を生みます。

だからその道で後悔することがあったら、「自分があの時ああしたからだ」「もっとこうしておけば良かったのに」と思ってしまいます。その選択した道に責任を持って歩まなければならないと思っているからです。

また、その道で成功すると「僕の判断は正しかったんだ」「自分の努力した結果なのだ」と傲慢に鳴ってしまいます。

そして別の道を歩む他人と比較して苦しみます。

「あの人は上手くいっているのになんで自分は…」と。

これが間違っているのでは?と聖書のサムエル記を読み終えて感じます。全ては神の業であると感じるからです。

具体的には、愚痴や後悔やイライラや憎悪などのネガティブは結果から来るものではなく、結果に対する視点の問題だからです。

結果がいかに大したものじゃないと気づきます。

例えば年収が増えてお金の心配があまりいらなくなった時に、僕は時間がないと思っていました。

狭いアパートは窮屈だと思って一戸建ての家を購入しましたが、ボーナス払いがなければ海外旅行に行けるのにと思っていました。

仕事もそうです、毎日同じことの繰り返しは退屈だと思ってエキサイトな仕事に転職しました。するとノルマや納期に追われて、こんなはずではなかったのだけれどと思ったこともあります。

そして子育ては人生を有意義にしてくれると思ったこともあります。子供は可愛いです。しかし、子育て経験者は承知ですが、楽しいばっかりではないです。

結局、結果だけでは幸福が来ないことを知りました。

結果に対してそこでどう感じるかが最も重要です。

結果が悪いから、愚痴が出るんじゃなくて、選択した道が間違っているから愚痴が出るんじゃなくて、そこの感じ方に問題があるから不幸に感じるんだと学びました。

それをよく「プロセスを楽しむ」とか「結果にフォーカスしない」と言っていろいろな人が方法を書いています。

結果ではなく、選択が重要です。

選択の時に、大きな力を働かせるとその後の結果に責任を持てるようになります。「選んだ道なのだ」と。「あれだけ考えて選択したのだ、間違いはない」と。

僕はよくお祈りをします、といっても宗教団体に属していないので形式もなく、自分と向き合っているに等しいかもしれません。

それでも、お祈りした後の結果は、「これが最良なのだ」と心底思えるから不思議です。

適当に選択すると、その後の結果に否定的になってしまいます。「もっとこうしとけばよかった」「物事は考えて行動するべきだった」と。

いかに正しい道を主と繋がって選択出来るか?と僕は考えながら生活しています。それは大きな決断のみならず、言葉遣い、ギター練習、ブログ、行動1つ1つです。

それさえ出来れば、幸福は自然と訪れる気がします。僕はそうです。

結果は実は大したことではないと学びました。他人との比較で苦しむのも、この結果を求めているからです。結果は本当に大したものではないです。

選択の重要さが分かると今やれることをやることしかないことを知ります。その考えが僕にはしっくり来ます。